グランカスタマ 伊勢佐木町店

Installation Shop

みなとみらいはかつて工業・物流の拠点でした。横浜市は工業地帯を移転させ新たな都市を作り出そうとする整備事業を進め、現在では『都市景観百選』にも選ばれた新しく美しい街並みが広がる近未来都市へと発展しました。
かつて100戸ほどだった寒村の横浜は2021年現在人口約370万人を越える大都市へと成長しました。1日かけて歩いた東京-横浜間も新幹線で20分足らずと当時では考えられないスピードで移動出来、夜には煌々と灯りが灯る街となり人々の暮らしは大きく様変わりました。
伊勢佐木や横浜の変遷を辿ることで、現在当たり前と思っていた距離や時間の感覚は西洋からもたらされた技術に影響を受け、変化してきたことに気づかされます。

様々な人々が行き交う現在の横浜を、文明の象徴である街の灯りを背景にモダンな配色で描きました。

1964年(昭和39年)有色人種国家における史上初のオリンピックが東京で開催されました。東京五輪を目前に開業した東海道新幹線でしたがオリンピック中の人々はテレビ中継に夢中で外出が減り、オリンピック後に利用客が増えたそうです。

特急形電車のこだまは東京ー大阪間を7時間足らずで結び、日帰りビジネスを実現しました。食堂車や半室ビュッフェ車、そして全車両に冷房が備え付けられたりとサービス面で大幅な進化が見られました。こだまはビジネス特急として大好評で、当初から座席指定券の入手が困難な列車でした。                                                                                                                                                                        

昭和のほっこりとした雰囲気とオリンピックの賑わいを落ち着いた配色でノスタルジックに描きました。

1864年(元治元年)に呉服屋として創業した野澤屋は、モダンなサービスを提供することで横浜を代表する百貨店へと成長しました。昭和初期には外国人のデザイナーを招いて洋服のオーダーメイドを手掛けたり、松坂屋銀座店で指導を受けた女性車掌がいる無料送迎バスを走らせ人々の注目を集めました。
1911年(明治44年)にドイツ人貿易商が輸入した洋画を全国に先駆けて上映するオデヲン座を開館しました。新作公開を意味する『封切り』はこの劇場から生まれた言葉だとされています。
オデヲン座の近辺には多くの芝居小屋が立ち並び、伊勢佐木町は多くの人々が行き交い賑わう町となっていきました。

長らく人々に親しまれていたオデヲン座や野澤屋の送迎車を伊勢佐木町の賑わいとともに温かみのある色彩で描きました。

1928年(昭和3年)に竣工したキングの塔の愛称を持つ神奈川県庁本庁舎は、シンメトリーな洋風建築の中にも日本趣味が感じられる帝冠様式が特徴の建築になっています。キングの塔、クイーンの塔(横浜税関)、ジャックの塔(横浜市開港記念会館)の『横浜三塔』を一度に見られるスポットを巡ると願いが叶う『横浜三塔物語』は浜っ子には有名な伝説となっています。

1920年代は西洋文化の影響を受けて最先端の流行を取り入れた若者、山高帽子でロイド帽子の「モダンボーイ」、膝下のスカートでボブカットの「モダンガール」いわゆる「モボ・モガ」が流行しました。また25歳以上の男子に普通選挙が行われるなど、個人の主義主張が認められ始めた時代でもありました。

キングの塔の堂々とした佇まいを背景に、徐々に変わりつつある人々のファッションや生活を明るく描きました。

鉄道の開通は文明開化を象徴する出来事であり、人々の関心を最も集めました。ごうごうと煙を吐き、地響きとともに猛スピードで駆け抜ける蒸気機関車は陸蒸気や鉄の馬と呼ばれました。その人気は弁当を持参して蒸気機関車を見物する人たちもいたほど。
当時草履や下駄を脱いで乗る乗客がいたり、汽車の地響きに驚いた漁師たちは魚が捕れなくなると嘆願書を提出するなど慣れない汽車を前にした日本人の珍騒動は数知れず。このようにして蒸気機関車は日本人の時間や距離の概念を変える大きなきっかけとなったのでした。

文明開化の象徴である蒸気機関車を手前に力強く描き、全体的にレトロで華やかな色彩にすることで活気ある時代を表現しました。

西洋建築が並ぶ居留地は人々の興味を誘う異国情緒な街並みへと変身していきました。また日本人の中にも結髪の技術を応用したバーバー屋や写真屋を営む者も現れ、西洋の文化が徐々に日本に広がり始めました。西洋の技術を日本で扱うには当時大変な苦労があったようですが、伝統や慣習にこだわらない国際的な者たちが成功を収めていったようです。

また外国貿易の発展によって急増した物資を一時的に保管する施設として横浜赤レンガ倉庫の2号館が1911年(明治44年)に、1号館が1913年(大正2年)に竣工されました。当時最先端の設備が整った赤レンガ倉庫は物流の拠点として活躍しました。

日本に根づき始めた外国人たちと、目新しい西洋の文化に驚き、興味津々な日本人たちを楽しげな雰囲気で彩り豊かに描きました。

画面左奥に見える橋は今なお伊勢佐木町の入り口付近にある吉田橋です。橋には関所が設けられ、関所の内を外国人居留地(関内)、関所の外を日本人居留地(関外)とし現在でもその名残として『関内駅』があります。
1882年(明治15年)には遊郭が移転したことを機に関内と遊郭を結ぶ伊勢佐木通りが繁華街へと発展していきました。

手前にある駅はアメリカ人のブリジェンスが設計した横浜駅で、当時は『横浜ステンショ』と呼ばれ横浜港と並び文明開化の象徴として人々の注目の的でした。ただ当時は出発15分前集合となっており、外国人も含め多くの乗客からブーイングがあったようです。

吉田橋を中心とした伊勢佐木町の発展と、横浜駅の人々の賑やかな様子を細部まで描きこみ当時の空気感を表現しました。

1871年(明治4年)に断髪が推奨され、「半髪頭(はんぱつあたま)を叩いてみれば、因循姑息(いんじゅんこそく)の音がする。総髪頭(そうはつあたま)を叩いてみれば、王政復古の音がする。散切り頭(ざんぎりあたま)を叩いてみれば、文明開化の音がする。」とまで謳われ丁髷(ちょんまげ)から洋風の髪型に変えることが新時代を象徴する出来事となりました。また、牛鍋を食べないものはとんでもなく時代遅れな奴だ、と言われたほど食文化も西洋化が進んだ時代でありました。
新たな時代の幕開けに疑念と関心を抱く庶民の様子を、それぞれの表情を描き分けながら日本的な落ち着いた配色で仕上げました。

男性用の洋服は明治初期に官僚の制服が洋装になったことで、その後、民間にも徐々に普及していきます。
それから少し遅れた1883年(明治16年)ごろ、女性も洋服を着るようになりました。きっかけは明治政府が不平等条約の改正にむけて日本も文明国であることを諸外国にアピールするため夜会や祝宴、貴婦人慈善会などを開いたことに始まります。きらびやかな西洋風のパーティー会場に着物姿は不自然なので、女性達はウエストをコルセットでしめつけフレアースカートをまとう西欧風のファッションを取り入れました。

日本人の洋服の始まりを華族の親子をモデルに華やかに描きました。

1853年7月8日(嘉永6年)、煙突からもうもうと煙を上げる黒船4隻を率いてペリーが浦賀沖に現れました。黒船の堂々たる姿は『水上に動く城』に例えられ日本の人々に伝わりました。
ペリーが上陸したことを聞きつけた庶民たちは全く違う外見や文化を持つ西洋人に興味津々で、見物のために浦賀へ繰り出し、中には望遠鏡を貸し出したり遊覧船を運行するなどの商いをする者も現れました。

威風堂々とした黒船と、新天地に心躍らせ船に乗り込んだ船員たちを生き生きと描きました。