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西洋建築が並ぶ居留地は人々の興味を誘う異国情緒な街並みへと変身していきました。また日本人の中にも結髪の技術を応用したバーバー屋や写真屋を営む者も現れ、西洋の文化が徐々に日本に広がり始めました。西洋の技術を日本で扱うには当時大変な苦労があったようですが、伝統や慣習にこだわらない国際的な者たちが成功を収めていったようです。
また外国貿易の発展によって急増した物資を一時的に保管する施設として横浜赤レンガ倉庫の2号館が1911年(明治44年)に、1号館が1913年(大正2年)に竣工されました。当時最先端の設備が整った赤レンガ倉庫は物流の拠点として活躍しました。
日本に根づき始めた外国人たちと、目新しい西洋の文化に驚き、興味津々な日本人たちを楽しげな雰囲気で彩り豊かに描きました。
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画面左奥に見える橋は今なお伊勢佐木町の入り口付近にある吉田橋です。橋には関所が設けられ、関所の内を外国人居留地(関内)、関所の外を日本人居留地(関外)とし現在でもその名残として『関内駅』があります。
1882年(明治15年)には遊郭が移転したことを機に関内と遊郭を結ぶ伊勢佐木通りが繁華街へと発展していきました。手前にある駅はアメリカ人のブリジェンスが設計した横浜駅で、当時は『横浜ステンショ』と呼ばれ横浜港と並び文明開化の象徴として人々の注目の的でした。ただ当時は出発15分前集合となっており、外国人も含め多くの乗客からブーイングがあったようです。
吉田橋を中心とした伊勢佐木町の発展と、横浜駅の人々の賑やかな様子を細部まで描きこみ当時の空気感を表現しました。
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1871年(明治4年)に断髪が推奨され、「半髪頭(はんぱつあたま)を叩いてみれば、因循姑息(いんじゅんこそく)の音がする。総髪頭(そうはつあたま)を叩いてみれば、王政復古の音がする。散切り頭(ざんぎりあたま)を叩いてみれば、文明開化の音がする。」とまで謳われ丁髷(ちょんまげ)から洋風の髪型に変えることが新時代を象徴する出来事となりました。また、牛鍋を食べないものはとんでもなく時代遅れな奴だ、と言われたほど食文化も西洋化が進んだ時代でありました。
新たな時代の幕開けに疑念と関心を抱く庶民の様子を、それぞれの表情を描き分けながら日本的な落ち着いた配色で仕上げました。 -
男性用の洋服は明治初期に官僚の制服が洋装になったことで、その後、民間にも徐々に普及していきます。
それから少し遅れた1883年(明治16年)ごろ、女性も洋服を着るようになりました。きっかけは明治政府が不平等条約の改正にむけて日本も文明国であることを諸外国にアピールするため夜会や祝宴、貴婦人慈善会などを開いたことに始まります。きらびやかな西洋風のパーティー会場に着物姿は不自然なので、女性達はウエストをコルセットでしめつけフレアースカートをまとう西欧風のファッションを取り入れました。日本人の洋服の始まりを華族の親子をモデルに華やかに描きました。
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1853年7月8日(嘉永6年)、煙突からもうもうと煙を上げる黒船4隻を率いてペリーが浦賀沖に現れました。黒船の堂々たる姿は『水上に動く城』に例えられ日本の人々に伝わりました。
ペリーが上陸したことを聞きつけた庶民たちは全く違う外見や文化を持つ西洋人に興味津々で、見物のために浦賀へ繰り出し、中には望遠鏡を貸し出したり遊覧船を運行するなどの商いをする者も現れました。威風堂々とした黒船と、新天地に心躍らせ船に乗り込んだ船員たちを生き生きと描きました。
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大空を飛び回るジェット機は力強いエンジンと美しいフォルムがより一層人々の心を惹きつける。
画面いっぱいにジェット機を描き、迫力と開放感あふれる一枚に仕上げました。
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言葉なんかなくったって柔らかさと温もりでふたりは通じ合えてるのかもしれない。仔猫の安心しきった表情と子どもの柔らかなほっぺで温かく優しい雰囲気を表現しました。
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物憂げにタバコを加える紳士はさりげなくライターを差し出す。
タバコの煙を滲みで表現し重厚感のある色味を使用することで雰囲気のある一枚に仕上げました。
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紳士、淑女、ライターの3部作をモノトーンで表現しました。重厚感のある色味で陰影を強調し、まるで映画のワンシーンのような雰囲気のある絵を描きました。
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冷ややかな眼差しでタバコを差し出す彼女は一体何者なのだろう。
コントラストを強調し、エレガントでミステリアスな女性をドラマチックに描きました。
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ムラのあるタッチを細かく重ねるて燃えるような夕日を描き、太陽の光とビルの影のコントラストを強調しノスタルジックな街並みを表現しました。
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コンクリートジャングルに囲まれた生活に潤いをもたらせてくれる憩いの場所、それがセントラルパーク。
湖の周りに生い茂る木々と遠くに霞んだ摩天楼を緑の濃淡を基調に表現しました。